死ぬとき、死なれるとき。

2006年4月11日

2年前の暮れ 賑わう店に廃墟の幻を見て以来、街の何気ない風景が一瞬廃墟に見える、という幻にしばしば遭遇しています。
晩秋のすすき野原がざあっと風にあおられるように、ふと景色がセピアになり、誰もいなくなるのです。
比喩とかじゃなくて、ほんとにそう見える。

例えば、病院。
モノトーンの待合が ふと 無人になり 人智を尽くした医療機器も 扱える人が誰もいなくなって がらんどうになってしまう。

例えば、夜の繁華街。
夜雲ですら昼間のようにこうこうと照らすネオンサインや 道を安心して照らす街灯がすっぽりと消え、真っ暗になる。

これはどういう感覚なんだろうとずっと考えていたのですが、なかなか答えは出ず、まるで予知夢のようで、それでいて根拠はなくて、ただただ幻に怯えるばかりでした。

最近になって どうやら見当がついてきたのは、これは僕以外のすべての人が死んだ後か、あるいは僕が死ぬときに見る最期の光景だろう、ということです。

漠然と、将来が不安で仕方がないときがあります。
僕はどのような選択をし、どのような人生を送るのか。
それは苦しいのか苦しくないのか。
何回も何回も考えているうち、その不安はいつも必ず決まった終着点を迎えることに気づきました。
それは、月並みな答えですが、死です。

ああ、何をやっても結局は死ぬのね、と。
ずっと前に頭ではわかっていたのかもしれませんが、最近ようやく覚悟がついたのかもしれません。

死ぬときの気持ちを考えます。
すべては、許すも許されざるも関係なく、ただ閉じていき、黒でも白でもない無の中に、自分ひとりで消えていきます。
死なれるときの気持ちを考えます。
バンドワゴンいっぱいに乗った笑顔の仲間たちが、ひとり、またひとりといつのまにか消えていき、しまいには誰もいなくなるのでしょう。

僕が見る廃墟の幻は、あるいは自分を含めたすべてを失ったときの光景なのかもしれません。
そんな見当がついてきてようやく、僕は幻をおそれなくなったのでした。
これは、あくまでいつか最期に来るものに過ぎないと。

最近の作品製作で、たまたまこんな感覚に近いもの、僕の死生観じみたものを具現化する機会がありました。
うまく形にできるといいです。

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