三十にして、親知らず

2009年8月2日

先日、ついに30歳になりました。

自分としては、悪い冗談みたい。
一番古い記憶、3〜4歳くらいの頃から、自意識の質が変わったことなどただの1回もなくただひとりの自分がずっと連続して存在し続けているのに、体の方は、背が伸び、ヒゲが生え、そして今、腹が出て、顔がたるもうとしているのです。

ふと、気づくのです。今の姿は、どこかで見覚えがある。
一番古い記憶の中の、父親の姿と同じだと。
僕は30年かけて、ようやくお父さんの背中に追いついた。
ここからは、誰にも頼れない僕の人生なんだ、と。

母親の「広くんが30歳だってウワー気持ち悪い」という声がどっかから聞こえてくるようです。


三十路を迎えて、深く思いを致すところはいろいろとありますが、ここに来てさらに大事になるのは、いつでも、自分は間違っているかもしれないと常に省みる心だと強く思うようになりました。


論語では、30歳は自立の歳と表現されています。

現代においても、平均的な30歳というのはなんとなくそうあるべきな雰囲気の年頃だと思いますし、社会の中での役割としても、わからないなりのチャレンジがいっそう増えてくるように思います。

しかしここで、多大なる試行の末にほんのわずかな成功を経験してしまうと、その成功の陰には天文学的な数の失敗が隠れているにも関わらず自分は努力の末に成功ばかりしてきた、結果として非常に正しい人間であるというとんでもない勘違いをしてしまいがちなのではないか。
ということを、最近考えるようになりました。

失敗はただ失敗であって、成功への道のりとは限らない、と最近思います。
なぜならば、どれだけ正しいはずのことを学んでも、人間は同じ失敗を何回も繰り返したりしますね。

ただできることは、その時々で状況証拠としての正しさのかけらを積み上げて自分は当該局面においては正しそうだと、ほかの人に主張するところまで。
受け入れてもらえたら、それはただラッキーなだけ、なのかな、なんて、最近思います。


それはそれとしてね、最近ね、親知らず抜いたんですよ。親知らず。初抜歯。よりによって30歳の誕生日の日に。
もう怖いのなんの。

夢の21世紀になっても、医療行為としての抜歯はごっついペンチで力任せに抜く、というだけ。
麻酔が効いてるので痛みはないけど、いざ抜けるときに、いままで空気の入ってなかったところに空気が入るプシ、プシ、なんて音とかが聞こえたり。
ベリーおそろしや。

親知らずも生えていない子供の頃、30歳っていうのはすごく遠い未来だったので、いま親知らずを抜いた30歳の自分っていうものに対してすごく現実感がない。
冗談みたい、夢の中みたいです。

これからもっともっと、子供の頃には予想もしなかった冗談みたいな出来事が僕を悩ませていくのだなあ、と思うと、これからの人生がプラモデルみたいな、ぺらっぺらのフィクションのようなものとして感じられるのです。

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