犬の言葉がわかってきた
ふうちゃんを飼い始めてから3年目、ようやく犬の言葉の一部がわかってきた。
人間の言葉って当てにならないな、というのを痛感する羽目になった。
犬はなまじ人間の言葉をわかっていて、教えこめばいくつかの命令も聞いてくれるものだから、ついつい人間の文脈で考えてしまう。でもそれって人間が犬の文脈を理解しているってことではない。
昔、バウリンガルという、犬の鳴き声を人間の言葉に翻訳してくれる本格派のおもちゃがあったんだけど、これはもう一方的な人間の文脈だ、と今になると思うわけ。
この人間の文脈というのは、言葉に尽くせば心が通じるという考えだ。
声に出して、理屈をこねれば正確に伝わる、という。
ふうちゃんはどうもいろいろ複雑な背景を感じさせる犬で、戸田にはなかなか心を許してくれなくて、まあでもたとえ言葉が通じなくても感情を込めて話しかけてればいつかは馴れてくれるのかな、なんて気長に考えていた。
でもこれはぜんぜんふうちゃんを理解した考え方じゃなかったわけ。
最近になってよくよく順序立てて考えてみた。
人間の文脈だと、すぐ犬に話しかけたり、手でなでたりするんだけど、これは犬同士だったら絶対にやらない、そもそもできないよね。犬はしゃべらないし、4本足だ。
では4本足で、言葉を口にしないという条件で親愛の情を表現するとしたら、どうする?
四つんばいになって、ふうちゃんに向けて顔を突き出したら、ふうちゃんはいとも簡単に戸田の顔をぺろぺろ舐め出した。
ふうちゃんはずっと、ふうちゃんの文脈で仲良くしたかったんだね。申し訳なくなった。
どうしてそもそも言葉が通じないなんて考えてしまったんだろう。
言葉ってのは、声に出すものばかりでもないんだよ。
37歳、遅咲きの気づき。
しかし一度こんな体験をしてしまうと、犬の文脈だけでなくて人間の文脈への理解にも自信がなくなってきた。
言葉を話して伝え合い、ときには言葉の裏に含まれるニュアンスもなるたけ汲む、ということで一通りのコミュニケーションができてきたつもりでいたんだけど、それらとは軸の違う非言語的なコミュニケーションをどれだけ見落としてきたのか、とぞっとするわけ。
人間の言葉は便利だけど、便利なものは隠蔽するよな。