4階

2018年12月2日

これは 4階 Advent Calendar の記事です。


アパートの4階には共用の洗濯物干し場があった。それだけの話。
たったそれだけのことなのに、うまくいかないときはいつまでも手が届かないものだ。

俺がNTTを辞めたのは2007年の夏だった。
上司に退職したいと言ったのは2006年の夏。1年もかかってしまった。

いつも何でも人より時間がかかってしまう。人より劣っているから、時間をかけてやっていくしかないのだ。
だから、頭の良い人にはつまらなかったらしいそのときの仕事も、俺には時間をたらふくかけて精一杯という感じだった。
たいした成果を上げられない一方で定時に逃げ帰ってはあちこちのライブハウスに出向き、帰る時間だけは一丁前に夜遅くだった。
(NTTはこういうやつを食わせるための場としては有効に機能していたと言えるだろう)

夜遅くに帰るようになると、ひとり暮らしは容易に荒れる。
北窓1枚の下北沢のアパートに住んでいて、洗濯物は4階の共用の物干し場で干すしかなかった。
朝に干して夜遅くまで取り込まないのは、他の住民の邪魔と考えてはばかられる。
なので、俺はもっぱら夜中 帰ってきてから洗濯して、これも共用である乾燥機を使って済ませていた。
200円入れれば30分乾かせる。
20代の俺は忙しなさの中で、お日様を小銭で買っているんだな、と無駄な後ろめたさに浸っていた。

NTTを辞めたのは、写真を撮りたかったからだった。
平和な考え方であれば、そういうのは老後におやんなさい、となるのだろうけど。
俺は、何か楽しみにとっておいたことが不慮の死でできなくなってしまうのが急にこわくなって、30歳を目前にした頃からやりたいと思ったことは何でもすぐやるようになった。
でも、たぶんそれすらも、始めるのにはほんとうは遅かったのだ。
普通なら、専門学校でも出て、若さをあたかも資格のようにして誰かに師事するチャンスを得て、その中で仕事へのコネクションが生まれて…という普通っぽい流れで生きていくんだろう。
もはや若いとは言えず、特別の蓄えも無く、実家が太いでもない俺は、普通っぽさへの強いコンプレックスを抱きながら、普通じゃないやり方で工夫してどうにか生きていかれないかということをよく考えていた。

心待ちにしていたNTTの退職日と、次にヴィレッジヴァンガードで販売するフォトカードの締め切りが重なった。
フォトカードの方は自信作が一度ボツになっていた。
どんな写真を撮ったらいいのかなと思い詰めて、花屋で買った小ぶりな向日葵と真夜中のファミレスで差し向かいに座り、退職日の朝が来るまでただひとつのことをずっと考えていた。
もうあんな日は二度と来ないのかもしれない。誰にも期待されない若い日々というのは、自分の課題だけに集中できる貴重な時間だったのだ。

これがそのときに撮った中で一番良いと思った写真です。

向日葵を連れて行った朝のこと

残念ながらこの写真もボツになってしまい、他に撮った及第点みたいな写真が店頭で販売され、そしてたいして売れなかった。
だからというわけでもないけど、この写真が俺には今でも一番正しい。

退職日の次の朝、荒れた部屋から洗濯物をかき集めて、全部洗ってやってから4階の物干し場に持って行ってこれでもかと干した。
初夏の青空、きれいに晴れあがった中で4階の洗濯物は気持ちよくはためいていて、俺の選択の正しさを裏付けるようだった。

宣伝


保護犬ふうちゃんとわたしたち
嫁が2016年からESSEonlineで連載しているマンガが電子書籍として販売されています。


MagicPod
ディープラーニングによる画面UI解析とAppiumを組み合わせた自動テストSaaSです。2016年頃からサービス運営・開発に関わっています。


エキスパートが教えるSelenium最前線
共著です。応用編です。


Selenium実践入門―自動化による継続的なブラウザテスト
共著です。第3刷が出ました。