もう1曲だけ

2022年12月14日

高校3年生の文化祭で、軽音楽部のライブのトリを飾ったのはハイスタのコピーバンドで、彼らがさんざ友達どうしで盛り上がって持ち時間を迎えた挙句「もう1曲だけ、もう1曲だけやらせてください」と大人に懇願していたのを、ねじくれた俺は 今さら何をその時間にこだわるのか と冷ややかに傍観していたのだった。

今年は自他ともに健康を損なう場面に出くわすことが多くて、生命への確信を無くすことが多かった。
そんな場面ごとに切に頭の中に響く言葉は、「もうちょっとだけ」「もうちょっとだけでいいから」だった。

30代の頃の俺は中年病で人生に飽きてしまって、他の人との関わりですら200〜300パターンの類型とのつきあいでしょ飽きちゃったよ、君らがこれからだいたいどうなるかもわかりきってるよ、なんて思ってた。残りの人生はひまつぶしや浪費にしかならないから、まだ飽きてない他の人にあげたいな、ってよく思ってた。
それがなんか最近は、急に惜しくなってきちゃったな。
もうちょっと、もう1曲だけでいいから、幸福の夢を見させてやってくれ、とか思うようになって、たぶん人生のきらめきがひとつ消え行くのが見えていたあいつが「もう1曲だけ」とすがるように言ったときのうるんだ瞳を、急に目の前のことのように思い出してしまったんだ。

俺には美術的センスが無い。
これは自分の作品が残念ながらイケてないことは言わずもがな、他人の作品を直感的に素早く感じる力に欠けるということだ(嫁にはあるみたいなのでずっと妬ましかった)。
そんな自分でも、美術をやっている連中(時には知人だったり、知人の知人だったりといった、ないがしろにできない人々)がどんな素晴らしいことをしているのか、やはりどうしてもなんとか知りたいなと思うことが増えたので、40歳を手前にした頃から作品の鑑賞時にある工夫をするようになった。

目の前の作品が、体をどのように動かして、どういう順序で書いていったのか、という身体的な感覚を自分の肉体でよく想像しながら見るのだ。
この絵はどこから描き始められ、どこへ描いていったのだろう。ここからここまでは手を目一杯伸ばせば一息に描けただろう。ここの部分を描くためにどれくらいの力がこもっていたのだろう、渾身の力はなぜどうしてもそこで必要だったのだろう。かすれながらも太く真っ直ぐ線を描き抜いた後はどんな身体的開放感だったろう。精緻な細い線を間違わないように、色の塗り重ねが確信に結びつくように、どれだけ繊細な力で時間をかけて指先を動かしただろう。
そこには必ず身体的な必然性があるはずだ。

この見方は、めちゃくちゃ時間がかかるし、そして疲れる。感性が出力される直前の中間生成物を再構築してから、それを素材にしてさらに元々の感性を力づくで近似するようなものだ。俺の身の回りでこういう風に作品を見ている人は誰もいない。俺のように凡庸な人間はここでも膨大な時間をかけなければならないのだな。

こうでもしないと俺は美術に寄り添うことができないから、こうするしかないんだよね。

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