yachiko 「Yes」 映像

2014年1月12日

yachikoが2014年1月21日にリリースするCD「pellet」から1曲
「Yes」の映像を作りました。
YouTubeにはプロモーション用の短い映像しか出していませんが、
CDの初回/予約購入特典としてついてくるDVDには
フルバージョンが収録されています。
ぜひCDを買って、フルバージョンをご覧ください!


今回の映像は、当初は他の方が作る予定だったのですが、
いろいろあって、最終的に戸田がやることになりました。
yachikoが描いた絵のアニメーションを入れる、などの要素は
戸田がやる前に進められていた企画を継承したものです。
その他の部分は、夜明けから日暮れまでの
日常的なカットを中心に撮りためて
その中からきらきらした瞬間を切り取っていく、
という方向で、戸田の方で組み立てていきました。


「Yes」という曲は、ぱっと歌詞を読んだだけだと
日常的な愛情の歌のようにも見えるのですが、
yachikoによれば、これは絆を失なってしまった後に作った歌なんだそうです。
「あなたが “Yes” と言えば、明日はきっと晴れる(のに)」
っていう、反語っぽいものを含んだ歌なのかな。

だからといって、映像については
寂しさや悲しさで沈んでいるだけの印象にするのも違うと思って、
少し大人になった女性が、悲しいことがあったけど
柔らかく包み込んで、きっと明日に向かって歩いていけると自分に言い聞かせる、
という、揺れる感情を許容した雰囲気にしたいな、と思いました。

その辺りを踏まえて、
この映像は全体的にモノクロの風景で一辺倒に固めつつも
おおまかに、過去の甘い記憶を歌う人格と
未来に向かって歩いていく人格という
対称的な2つの要素で構成しています。
例外的にカラーのカットがあったりしますが、
これは甘い記憶のフラッシュバックを意図しています。


今回は、モノクロの質感にかなりこだわりました。
戸田はもともとモノクロ映像は文脈によらずよく使ってきましたが、
いつもと違う点として、白飛びも黒つぶれもしない、中間調の描写を強く重視して、
柔らかく手触りのある、1980年代くらいのフィルムっぽい軟調な質感で
優しい世界を演出しようと思いました。

そういう描写にしようかな、という発想の種は
数年前に、何の気無しに見たLINDBERGのMV集までさかのぼります。
いきなり極端に中間調の豊かなモノクロ映像が出てきて、驚いたわけです。

ああそういえばあんまりこういう質感って最近 継承されてないなあ、
すごく良いもんだなあ、と。
懐古趣味としてのフィルム映像ではなく、スムーズな画質が得られた頃のフィルム映像、
というのが心に強く残って、それからずっと引きずっていました。

今回、音楽と映像の文脈に合う質感として、このときの種を活用することができました。
うまくはまったんじゃないかな、と思います。

Atom lens

2011年11月23日

2011年3月11日、日本の東北地方から関東地方の、非常に広い範囲で大地震が起こり、
それにより福島の原子力発電所は破壊され
放射性物質による地球環境への影響は、今もなお続いていると言われている。

こんなことは、いま同じ時代に生きている日本国民は
言うまでもなく誰だって知っていることだし、
これから生まれる子供たち、そのまた子供たちの使う教科書にも
当たり前のように記載され、世代を超えた常識となるのだろう。

でも、自分が身にしみて体験していないことを
今のうちから「常識」として簡単に処理してしまって良いのだろうか?


目に見えず忍び寄る放射性物質の脅威、という新しい「常識」に世間はおびえ、
時には何の裏付けもないまま それらの脅威への不安 あるいは安心の声を上げたり、
被害妄想のオピニオンリーダーにあおられて、
根も葉もない話になんとなくつられてしまったりもする。
だが、福島の原発がどうにかなる前から、
僕らの身近に、放射性物質は
わりとどうでもいいカジュアルな理由で人為的に存在していて、
そんな中で無神経に僕らは生き続けてきたのだ。

例えば、僕も毎時6〜7マイクロシーベルトのガンマ線を放つ物質を
8年間所有していると聞いたら、あなたはどう思うだろうか。

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1970年代頃まで、日本の工業製品には
放射性物質の素材が含まれていることがまだけっこうあって、
例えばその頃までのカメラのレンズには、写真の写りを良くするためのコーティング材に
放射性のトリウムが含まれることがあったそうだ。
僕が愛用している PENTAX Super-Takumar F1.4/50mm もそのひとつで、
写真雑誌では「アトムレンズ」なんて愛称までついていたらしい。
(参考URL: http://uranglass.gooside.com/atomlense/atomlense.htm
普及型の量産製品だったから、
今でも新宿や中野の中古カメラ屋で安価にたくさん売られているけど、
こんなご時勢に至っても、誰も文句のひとつも言わない。

きっとそんな風に、僕らの生活には見直さなければならないものがたくさんある。
これから、僕らの世代が新しい常識を作るのだ。
今、バランスを欠いた様々な「常識」がはびこっているのは、
常識を形成する初期段階としては、きっとしょうがないことなんだと思う。
でも、実感を伴わない机上の空論が「常識」となってしまうんだとしたら、
僕には、次の世代に自信を持って「常識」を伝えることはできない。


3月11日は僕の住む東京でも、珍しいくらいに大きい地震が起こった。
でも僕から言わせれば、せいぜい震度5強であり、家がぶっ壊れるような地震じゃない。
東京の街は、たいした被害がない割にはきわめて神経質に反応し、
JRの路線は終日運休、私鉄・地下鉄もなんとか夜中の復旧、
迎えの車で道路は大渋滞、という一応の混乱ではあったのだが、
結局翌日の朝にはサラリーマンたちは
なんとなくいつものように山手線のホームに整列していたし、
比較的早い時期に、見える形での混乱はおさまった。

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東京に明らかな形で残ったのは、
地震のせいで先っちょがちょっと曲がってしまった東京タワーぐらいのものだった。

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ゴジラやモスラなんかの往年の怪獣が折ってしまった以外は
当たり前にそびえたっていた絶対無比の「東京」のシンボルが、
あっさりとひね曲がってしまった。

でも、今となってはそれすら、よく目を凝らさなければ気づかない変化に過ぎない。
東京に居座っているだけでは、これから先に起こることについて、
実感は薄れていくばかりなのではないか、と、
ある日 ふと思い、僕は怖気が走った。


少なくとも、僕らは将来「当時を知る者」となる。
「当時は、どんなだった?」「それに対して何を考え、何をしたか?」と、
当時を知らない若者たちから、少なからず尋ねられるだろう。
そんなときに、自分が伝えられることが
たとえば当時の新聞の写しに過ぎなかったなら、
自分は自分を許せるだろうか?


そんなことを漠然と考え始めた頃、
2011年10月、ひとつのニュース記事が目にとまった。
原発に近く、危険だとして立ち入りが制限されていた区域が
半径30kmから半径20kmに縮小されるということ、
それに伴い、ちょうどその区域内にあった
広野、という駅まで電車が通るようになる、ということ。

行きたいと思った。行けるところまで。
そして、アトムレンズで、そこにある本当のことを撮って、
本当のことに対峙したときの自分の素直な気持ちを、残したいと思った。

すべては、端的に言ってしまえば
「自分の気持ち悪さを払拭するため」でしかなく、
人道的だったりして、人に褒められるような行為では決してない。
でも、その衝動がどうしても止められなかった。


2011年11月3日の早朝、出発した。
経路は、JRで上野駅まで出て、そこから水戸駅まで1本で行き、
水戸駅から乗り換えていわき駅まで行ったら、
そこから出ている広野駅行きに乗り換える、というもの。
普通電車だけで、片道4〜5時間くらいはかかる。一応、日帰りが可能だ。
乗り換えもあるけど、路線名は上野駅から変わらず「常磐線」のみだ。

昔、知人のバンドが仙台でライブをやると言うので
青春18きっぷを使って、ほぼ同じ経路で広野を経由して
仙台まで行ったことがあった。
なんとなく、そのときのことを思い出しながら電車に乗った。

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水戸駅に着くと、さっそく、複雑な気持ちになるものを見てしまった。

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行き先表示で、「仙台」が黒テープでつぶされていた。
もう、このルートでは(原発の近くを通るので)仙台に行けませんよ、
という無造作な案内だ。
わかってるよ、と思いながら、いわき行きに乗り換える。

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そして いわき駅に着くと、
さっきとはまた別の、複雑な気持ちになるものを見てしまった。

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「仙台」がつぶされていない。
それは、今の状況が一時的なものに過ぎず、
「いつかは直って、仙台まで通じる路線」という認識のあらわれなのか。
地味なポイントの深読みなんだけど、
福島と茨城の間の、認識の断絶を感じてしまいちょっとへこんだ。

広野駅まで行く電車は、かなり本数が少ない。
しばらく待ってやってきた電車の行き先表示には、
「普通」と書いてあった。
これが、今の「普通」なのか、とまた余計なことを考える。

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そして広野駅に着いた。
この先の駅には、まだ進むことはできない。

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何の用事か、広野駅で降りる人は他にも数人いた。

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広野駅前には、いい歳のおじいちゃんが運転手の
「広野タクシー」が1台きり止まっていて、
暇なのかなー物好きだなーと思っていたけど、
後で僕が歩いているそばを何往復もしていた。
主な行き先は、どうやら近くにある火力発電所のようだった。

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駅のポストの上には「測定ポイント」と印がつけられていた。

とにかく、北に歩いて、行けるところまで行こうと思った。

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人の気配が薄い、しんと静まった町の中を歩く。
ガイガーカウンターらしき電子音がピッピと聞こえてきたりする。
15時半頃に町の防災無線でその日の線量を放送していたので、
おそらくそのための計測だったのだろう。

ショッピングセンターには明かりがついていて、
まさかと思って入り口に行くと、三菱重工の拠点となっている旨の貼り紙。
後になって聞いたところでは、大きい敷地のところはみんな
企業による何らかの拠点として使われている、とのことだった。

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ゴーグルが捨てられていた。
おそらく、まだ自由に立ち入れない区域だった頃に
捨てられていったものだろう。

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家屋の壊れ方はそれぞれで、古い家でもしっかり建っているものもあれば
土壁が割れたままになっているものも多かった。
あまりにひどく壊れている家は、業者が解体しに来ていた。
家主が不安そうに見守っているところへ、
「これでもう大丈夫ですよ」と言う解体業者が印象的だった。

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人がいないことの象徴のように、
やたらと立派なクモの巣や
たわわに実った柿の木をたくさん見た。

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その一方で、生業を続ける、がんばろう、などの、
人の存在を感じさせる看板も、いくつか見た。

驚きだったのは、神社の祭礼を行うという告知があったことだ。

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ほとんど誰もいなくなった町での、ある決断に
どれほどの思いがこめられているかを考える。
何も言えない。

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商魂たくましいなあ、と思った、原発処理作業者向けの宿泊施設の案内。
事故の処理は既に、ひとつの事業となり
多くの人の糧ともなっているのだ、ということを
あらためて感じさせられる。
これも後で聞いた話だが、作業者向けの宿泊施設が近くで足りておらず
南は茨城まで施設が作られているらしい。

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人の気配が薄い薄いと思っていたが、
やがて 案外車の通りが多いことに気づいた。
ちょっとした千葉の田舎くらいの交通量はある。
「広野タクシー」が、何度目だろうか 僕を追い越していく。

普通の田舎と違うのは、
運転している人はほぼ作業服を着ていることだ。

駅からだいぶ歩いてくると、日本の田舎ならどこでも見られそうな
普遍的な、のんびりした風景が広がってくる。

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火力発電所の大きな煙突が近くなったところで、
目の前にゆるゆるとパトカーが走ってきて、
僕のところで止まった。
よく見ると、パトカーには「長崎県警察」と書いてある。
なんで長崎???

いまいちよくわかっていない僕に、
人の良さそうな警察官が3人、いろいろと尋ねてくるが、
まあ、うしろめたいことなど何もないのでさらさらと答える。
生まれて初めての職務質問&身体検査で、ちょっと笑ってしまいそうになる。

聞けば、立ち入れない区域となり無人となった町に
空き巣が多く立ち入っているため、
全国から警備の応援が来てパトロールしているとのことだった。
それにしても、長崎県!

もしかして火力発電所の近くまで行けるかな、とも思っていたが
やはり関係者と広野タクシー以外は立ち入り禁止。
そのまま、北へ北へと歩く。

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そして、唐突に立ち入り禁止の看板が現れた。

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ちょうど このリンクの地点(N37.242577,E141.006133) だ。
これ以上進む理由も度胸もないので、広野駅にまっすぐ帰ることにした。

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天気が気持ちよく晴れていたので、最初こそ身構えていたが
帰り道は、自分の実家の近くを気楽に散歩しているような気持ちだった。

同時に、それが一時でも失われるということについて想像した。
見た目には前と何も変わらないのに、
見えないもののせいで生活の場を立ち退かざるを得ない、ということ。

国は言う、ここはもう「安全」だと。
でも、それは信じられるのか? わからない。
信じたところで、現実的に暮らすには何かと不便だ。

疑心暗鬼の心とは裏腹に、
草木、花、鳥や虫達は美しく、変わらずそこに生き続けている。

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広野駅に戻り、
電車の本数が少なく、良いタイミングでいわき駅に戻れない、と
Nomadic Records の平山さんに伝えると、
なんとわざわざ車で迎えに来てくださった。恐縮しきりです…

平山さんは、広野よりもさらに原発に近い富岡町で
音楽のインディーズレーベルを主宰されていて、
震災の後も、いわき市内で活動を継続されている。
その一方で、「富岡は負けん!」という横断幕を
富岡町ライブカメラ(※配信終了)に映るところに掲げたり、
富岡インサイド という支援情報サイトを立ち上げられたり、
ともかく僕から見れば信じられないくらいエネルギッシュな人だ。

平山さんは、僕をいろいろなところに連れて行ってくれて、
そしていろいろなことを話してくれた。
東京から来た知り合いのバンドマンにも、同じようにしてくれたらしい。

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国道の方には、さっき僕が見たより大きなバリケードが築かれていた。
この辺を迂回すると、 Jヴィレッジ という広大なサッカーグラウンドがあるのだが
現在はすべてアスファルトでつぶされ、巨大な除染場、
もしくは作業員のプレハブ宿舎になっているということだった。
たまたま、除染場で働く人に平山さんの知人がいらして
これから寒くなる冬は厳しそうだ、と話されていた。

平山さんは、車で海沿いをずっと案内してくれた。
でも、撮れた写真は1枚きりだった。

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場所はたしか久ノ浜の、津波の跡だ。
福島沿岸も津波の被害は大きく、
倒壊した家屋、火事、そして亡くなった人も多かったらしい。
なんだか、いざそこに来ると軽々しく写真を撮る気になれなくて、
せっかくの機会だったのに、1枚きりになってしまった。

津波から半年以上も経ち、がれきもほとんど片付いて更地になった中に、
ぽつんと、灯りのついた家がたまに悪い冗談のように建っている。
平山さんによれば、海底の地形などの要因から
ほんの狭い範囲でも津波の強弱が違い、残った家もある、ということだった。

震災から半年以上経ち、そしてもう2か月もすれば2011年は終わる。
平山さんは、もう終わるのか今年、正月が来る気がしねえなあ、と言った。
立場は全然違うけど、同感だった。
今年だけで終わらない、来年もその後もずっと続くことが、
他人事ではなく、すぐそこに残っている。


僕が見て、撮って、感じてきたものは、
震災直後の生々しい傷痕なんかではなく、
まあいろいろとある程度は片付いてしまった後のものだ。
それでもって、他人にドヤ顔で何かを語れる筋合いなんかないし、
ジャーナリズム精神なんてものだってない。

これからもずっと残り続けていくものを、
自分に少しでも近づけて、感じてくることができただけだ。
そして、これからのこの国の「常識」を語るときには必ず、
この日の思いが脳裏をよぎることだろう。

自己満足だけど、たぶんそれが僕にとって大事なのだと思う。

先日、ついに30歳になりました。

自分としては、悪い冗談みたい。
一番古い記憶、3〜4歳くらいの頃から、自意識の質が変わったことなどただの1回もなくただひとりの自分がずっと連続して存在し続けているのに、体の方は、背が伸び、ヒゲが生え、そして今、腹が出て、顔がたるもうとしているのです。

ふと、気づくのです。今の姿は、どこかで見覚えがある。
一番古い記憶の中の、父親の姿と同じだと。
僕は30年かけて、ようやくお父さんの背中に追いついた。
ここからは、誰にも頼れない僕の人生なんだ、と。

母親の「広くんが30歳だってウワー気持ち悪い」という声がどっかから聞こえてくるようです。


三十路を迎えて、深く思いを致すところはいろいろとありますが、ここに来てさらに大事になるのは、いつでも、自分は間違っているかもしれないと常に省みる心だと強く思うようになりました。


論語では、30歳は自立の歳と表現されています。

現代においても、平均的な30歳というのはなんとなくそうあるべきな雰囲気の年頃だと思いますし、社会の中での役割としても、わからないなりのチャレンジがいっそう増えてくるように思います。

しかしここで、多大なる試行の末にほんのわずかな成功を経験してしまうと、その成功の陰には天文学的な数の失敗が隠れているにも関わらず自分は努力の末に成功ばかりしてきた、結果として非常に正しい人間であるというとんでもない勘違いをしてしまいがちなのではないか。
ということを、最近考えるようになりました。

失敗はただ失敗であって、成功への道のりとは限らない、と最近思います。
なぜならば、どれだけ正しいはずのことを学んでも、人間は同じ失敗を何回も繰り返したりしますね。

ただできることは、その時々で状況証拠としての正しさのかけらを積み上げて自分は当該局面においては正しそうだと、ほかの人に主張するところまで。
受け入れてもらえたら、それはただラッキーなだけ、なのかな、なんて、最近思います。


それはそれとしてね、最近ね、親知らず抜いたんですよ。親知らず。初抜歯。よりによって30歳の誕生日の日に。
もう怖いのなんの。

夢の21世紀になっても、医療行為としての抜歯はごっついペンチで力任せに抜く、というだけ。
麻酔が効いてるので痛みはないけど、いざ抜けるときに、いままで空気の入ってなかったところに空気が入るプシ、プシ、なんて音とかが聞こえたり。
ベリーおそろしや。

親知らずも生えていない子供の頃、30歳っていうのはすごく遠い未来だったので、いま親知らずを抜いた30歳の自分っていうものに対してすごく現実感がない。
冗談みたい、夢の中みたいです。

これからもっともっと、子供の頃には予想もしなかった冗談みたいな出来事が僕を悩ませていくのだなあ、と思うと、これからの人生がプラモデルみたいな、ぺらっぺらのフィクションのようなものとして感じられるのです。

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2007年3月30日

近頃は、目的地のひとつ手前の駅で電車を降りてしまうことがあります。
たかだか歩いて数十分の距離、そう急ぎでもないときにわざわざあの気持ちの悪い満員電車に乗りたくない、という気持ちが強くなったのです。

普段は通らない道を歩くと、様々なことに気づきます。
今夜は、東北沢から下北沢の話。


東北沢からとぼとぼと夜道を歩いている最中、ふと 世田谷区の家並みは醜い、と感じました。
かつては夢のかたまりであった、その残骸のように強く感じられたからです。

少なくとも近代日本において、自分の家を建てるということは せいぜいが一生に一度の大イベントです。
そのため、家には建てたときの願望が凝縮されやすいものです。
誰だって、高い買いものをするときはできるだけ納得のいくものにしたいですからね。

世田谷区のように密集した地域ならなおさら、それらは限られた土地にさらにデフォルメされて形作られるように思います。
「庭ができるだけほしいな」「植木がいっぱいほしいな」
「なんでもできるガレージがほしいな」「センスの良い形にしたいな」

そして、おそらくもっとも強いであろう願望は、「家族がみんなで楽しく住めるといいな」というものでしょう。
配偶者を得て、子供ができて、人によっては年老いた両親を引き取り、そんな愛すべき人たちを皆受け入れてくれる大きな家を夢見て、ある割合の人々はその夢を実現させていきます。

ですが、夢の実現は必ずしも絶対的な幸福にはつながりません。

家族は不変のものではなく、やがて四散していきます。
子供は成長し、また自分だけの家庭を求めて旅立ち、年老いた両親には、やがて逃げることのできない死が訪れ、ある割合の人々は配偶者の早すぎる死に遭遇し、

そして家には、だれかさんの抜け殻が増えていきます。
そんなのは、実現したかった夢のうちじゃあないのに。

あまりにみんながみんなそうだから、近頃は家並みがみな悲しくみえるような気もします。
何が悪いというわけではなく、何をすれば良いというわけでもないのですが、このやるせない感じ、なんとかならないものなのか、と東北沢の駅を降りる度に思うのです。

どこまで生きるの?

2007年1月22日

たとえば、僕の祖父のひとりは60過ぎで亡くなったのですが、それに沿えば、僕の父親はもう数年内には亡くなってしまうし 僕の人生もぼちぼち折り返し点に差しかかるということです。

と、いうことを考え出すと、すごくいのちがいとおしくなります。
そんなもんでなくなっちゃうんだな。

でも、だからと言って何ができるわけではないのですね。
僕や父親は祖父ではないですから、死に至るまでは、それぞれの理由と、期間があり、60歳で必ず死ぬという保証はない。
僕なんか、望む望まざるに関わらず、明日にも死んでしまうかもしれない。

どんな風に生きたって、生き切ることなんて絶対にできないはずなんだ。
生きている限りは志は絶えなくて、ゆえに死ぬときは必ず志半ばとなるはずです。

僕らにできるのはきっと、その場その場で生まれる人生の選択肢を選び、それを最期の最期まで続けることだけなんだと思うのです。
そしてそれぞれの選択がいつも最良であるよう、できるだけ意識的に生きるべきなんだ。

おそらく後悔の無い人生というのは、そのように選択し続ける生き方だ、と 近頃思うのです。
選択の自由って素晴らしいね。


僕の周りは、本当にめったに人が死にません。今思うとびっくりするくらい。
大学時代に友人から「おまえは友達が死んだときの気持ちなんてわからないだろう」なんて言われてなかなかショックだったのですが、実際そうなのでなんとも言えない・・・。

だからたぶん、他の人に比べて僕は人生観とか生命観とかに対して 長い間安穏と無神経にかまえつづけていたフシがあると思うんだけど、最近になってすこし気になってくると、なんでもっと若いうちからこういうことちゃんと考えなかったんだろう、と焦る気持ちもあったりします。

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